LOGIN法廷の扉が開き、黒法服がばさりと鳴った。
「令和15年(ワ)第145号、結婚式キャンセル料減額請求事件。 同じく第162号、準備費用返還請求事件。――併合して審理するよ!」 軽すぎる声に、当事者も代理人も一斉に目を丸くする。 花霞地方裁判所桜都支部・判事、司 法子。 いつも通りの登場だった。 「判事っ、“するよ”ではなく“いたします”です!」 書記官・東條菊乃の鋭い声が飛ぶ。 当事者、美咲と拓也は互いに視線を逸らし、弁護士たちも手を止めた。――場はすでに修羅場の予感に包まれていた。
一週間前。
第2号法廷。事件A――結婚式キャンセル料減額請求事件。
原告:藤堂美咲(26歳・OL/元新婦)
原告代理人:弁護士・佐伯亨 被告:株式会社ブライダル桜都(式場運営会社) 被告代理人:弁護士・西田真 「キャンセル料3,000,000円なんて不当です!」 美咲の代理人・佐伯が声を張る。 式場代理人・西田は冷ややかに反論した。 「規約に基づく当然の請求です。挙式一か月前のキャンセルは総額の八割。契約書に明記されています」 「料理も引出物も未発注です! 実損を超える請求は認められません!」 法子は椅子を斜めに傾け、机をトントンと叩く。 「……食べる前からプリンのカラメルまで取られる気分だよね。食べてない分まで請求するなんて」「判事! 例え話は不要ですわ!」
菊乃の声が響く。結論は出ず、第1回期日は終了した。
同日午後。事件B――準備費用返還請求事件。
原告:相馬拓也(28歳・会社員/元新郎)
原告代理人:弁護士・川崎悠介 被告:藤堂美咲(26歳・OL/元新婦) 被告代理人:弁護士・佐伯亨(事件Aと兼任)拓也が机を叩き、声をあげた。
「俺が払った招待状代や衣装代! 本来は二人で準備すべきだ! せめて半分は返せ!」 感情が先に立ち、川崎が制止する間もなく言葉が飛び出す。 「式場代はすべて私が支払いました! 準備費用まで負担する義務はありません!」 美咲が険しい表情で反論。 佐伯は冷静に資料を繰り、言葉を選んでいた。 「じゃあ返還金があるなら、そこから返せ!」「それは私が払ったものです!」
「返せ!」
「いやです!」
――堂々巡り。 代理人たちが慌てて制止するが、空気はますます荒れていく。法子は頬杖をつき、机をリズムよく叩いた。
「要するに――式場と美咲の“キャンセル料減額”と、拓也と美咲の“準備費用清算”。本来は別なのに、ごっちゃになってるんだよね」 一同が黙り込む。 法子は立ち上がり、黒法服を翻した。 「わかった、次回期日までに整理しておくよ。今日はここまで!」 ばさり、と退廷。 「判事ぃっ! 軽すぎますわーーっ!」 菊乃の声が裏返った。夕刻の執務室。
机には事件AとBの記録が積まれている。法子は椅子に深く腰を下ろし、両手を打ち合わせた。
「もうまとめてやっちゃおう。併合審理だね」「判事っ! 事件Aは美咲と式場、事件Bは拓也と美咲。性質も当事者も違います! 同じ場で扱うなど前代未聞ですわ!」
菊乃が机を叩く。 法子は模造紙を広げ、黒マーカーで三つの名前を書いた。《式場》 《美咲》 《拓也》
「まず式場から返ってくるのが――返還金カステラ!」 カステラを《式場》から《美咲》へすべらせる。「契約者は美咲ちゃんだから、ここに来る」
続けてクッキーを二枚、《美咲》《拓也》の上に置く。 「準備費用は半分ずつのはず。でも払ったのは拓也くんだけ」 赤ペンで《拓也》を丸で囲み、美咲のクッキーを拓也へ移した。《式場 → 美咲 → 拓也》
「併合審理にすれば、この流れを一度で片付けられる。合理的でしょ?」 菊乃は呆れながらも、真剣な表情で模造紙を見つめた。 「確かに……筋は明快ですわね」 法子は満足げに笑い、残ったクッキーを口にした。法廷に三者が揃った。
代理人たちが資料を抱え、傍聴席もざわつく。 「令和15年(ワ)第145号、結婚式キャンセル料減額請求事件。 同じく第162号、準備費用返還請求事件。――併合して審理するよ!」 法子の宣言に、菊乃が眉間に皺を寄せ立ち上がる。 「判事っ、“するよ”ではなく“いたします”です!」 口頭弁論が始まるやいなや、美咲が声を張った。 「キャンセル料3,000,000円は不当です! 料理も引出物も未発注。実損を超える請求は認められません!」 式場代理人・西田は契約条項と既発生費用を列挙し、淡々と反論を続けた。拓也が机を叩く。
「俺が払った招待状代や衣装代! 本来は二人で準備する費用だ! 美咲、お前も半分負担すべきだ!」「式場代はすべて私が支払いました! 準備費用まで負担する義務はありません!」
美咲も即座に反論。 川崎は発言の機をうかがい、佐伯は静かに頷いていた。 「じゃあ返還金があるなら、そこから返せ!」「それは私が払ったものです!」
「返せ!」
「いやです!」
――またも堂々巡り。
代理人たちが「ご静粛に!」と声をそろえるが、二人は止まらない。
「はいはい、ストップストップ〜!」 法子が両手を広げ、大きく交差させて発言をさえぎると、模造紙を取り出し、執務室で説明したのと同じ手順を繰り返した。 ざわめく傍聴席。 代理人も目を丸くする。《式場 → 美咲 → 拓也》
「ね? 返還金を一度美咲に帰属させ、その中から拓也へ支払わせれば一発で済む。併合審理にした意味もスッキリ!」 「判事っ! 模造紙と菓子を証拠説明に使うなど……前代未聞ですわ!」 菊乃が顔を真っ赤にして叫ぶ。 法子は涼しい顔でウインクを送った。ざわつく当事者たちを見回し、法子は模造紙を片づけて姿勢を正した。
「それでは判決を言い渡します」[主文]
一 株式会社ブライダル桜都は、藤堂美咲に金120万円を返還せよ。 二 藤堂美咲は、相馬拓也に金40万円を支払え。 三 訴訟費用は各自の負担とする。[判決理由]
本件キャンセル料300万円のうち、料理・引出物は未発注である。 その費用まで含めるのは社会通念上過大であり、消費者契約法十条に反する。減額を相当とする。 また準備費用については、契約者が美咲である以上、返還金は形式的に美咲に帰属する。 もっとも、拓也が全額を負担しており、その半分は美咲の負担分である。 返還金を独占させれば不当利得となるため、その分を拓也に支払わせるのが相当である。 両事件を併合し、一体的に処理することが最も合理的である。法子は机をトントン叩き、にやりと笑った。
「プリンが崩れてもカラメルは残る。結婚式が壊れても、残った責任とお金は消えないんだ。だからきっちり分けてもらうよ」「判事っ! いいかげんプリンを判決理由に持ち込むのはおやめくださいませ!」
菊乃の声が響いた。 その後、法廷は静まり返り、当事者たちはただうなずくしかなかった。夕暮れの執務室。
判決を終えたばかりの重い空気が残る。 「判事! 本日の進行は法廷の秩序を乱していました! 模造紙にお菓子を並べるなど司法への冒涜ですわ!」菊乃は机に両手を突き、怒りをあらわにする。
法子は肩をすくめ、カステラを口に運んだ。
「ま、いいじゃん。“カステラ判決”って呼ばれるかも。お菓子の名前がつく判決なんて、面白いでしょ?」「か、カステラ判決ですってぇ!? 司法の威信に泥を塗る気ですの!?」
菊乃が顔を真っ赤にして絶叫する。 その声を背に、桐生所長が扉を開け、疲れ切った顔で二人を見やった。 「……またやったのか、君たち」 深いため息とともに、小瓶を取り出し胃薬を飲み干す。 「頼むから、もう少し普通にやってくれ……」 法子は笑みを浮かべ、クッキーを菊乃に差し出した。 「おキクさんには、甘いもんが足りないんじゃないかな?」「判事ぃぃぃーーーっ!」
菊乃の悲鳴が夕暮れの執務室に響き渡った。 (つづく)法子「――はいっ、ここまで読んでくれてありがとねっ☆ 『法廷にはコーヒーとプリンを』これにて閉廷しまーす!」菊乃「判事っ! あとがきでまで“閉廷”を叫ぶなど、前代未聞でございます! せめて“ありがとうございました”にしてくださいませ!」 法子「じゃあ、“閉廷ありがとうございました〜☆”」菊乃「組み合わせがめちゃくちゃですのよ!」 法子「でもさぁ、ちゃんと最後は“プリン・エトワール”でしめられたでしょ? おキクさんだって、頬ゆるんでたじゃん?」菊乃「ゆ、緩んでなどおりませんっ! あれは……プリンの質を確認するために真剣な表情をしただけで……!」法子「読者のみんな、聞いた? “真剣にプリンを味わう”って、なんかすごくお嬢様らしいでしょ☆」菊乃「判事っ! 勝手に変換しないでくださいまし!」 法子「あ、そういえばさ。おキクさん、“何度でも一緒に”って言ってくれたじゃん? あれ録音してあるから、次の裁判で流してもいい?」菊乃「ななななっ……!? 録音!? そんなものを証拠品のように扱わないでくださいませぇぇ!」 法子「え〜? でも“判事のいじわるぅぅぅ!”って叫んだのも、いい感じに録れてるよ☆」菊乃「も、もはや辱めでございますわ……! どうかお慈悲を……!」 法子「はいはい、冗談冗談。……でもさ、第二部がもしあるなら――またプリン食べながら騒ごうねっ☆」菊乃「はぁ……結局最後まで、食べ物でまとめるのですか……。ですが……皆さま、もし次がございましたら、そのときもどうか温かく見守っていただけますと幸いでございます……(深々と一礼)」 法子「よしっ! それじゃあ最後にみんなで復唱しよっか! “甘味の過剰摂取には 気をつけましょう☆”」菊乃「そんなあとがきの締め、聞いたことがございませんわぁぁぁっ!」
花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 ばさり。黒い法服の裾を翻し、判事・司 法子が入廷した。「令和15年(ワ)第311号、都市再開発差止請求事件――開廷しまーす☆」「判事っ! 開廷の宣言を遊ばないでくださいませっ。不謹慎でございますわ!」 書記官・東條菊乃が思わず声を上げる。 年明け最初の法廷。 満席の傍聴席から笑いが漏れ、空気が少し和らいだ。 原告はスターロード商店街の小規模店舗と住民たち。 代理人は高梨悠一。 被告は桜都市と花霞州、そして外資系デベロッパー、ネクサス・シティ・デベロップメント。 代理人は白川真理子。 冷静沈着な大手事務所の弁護士だ。 第1回口頭弁論。 高梨が熱の入った言葉で訴える。「スターロード商店街は半世紀以上、暮らしを支えてきました。八百屋も書店も喫茶店も――顔を合わせ、支え合う場所です。再開発でそれを奪うのは、取り返しのつかない損失です!」 白川が資料から目を上げる。「歴史は尊い。しかし現実をご覧ください。老朽化、空き店舗、利用者の減少。このままでは“廃墟”です。再開発は未来へ生き抜くための必然です」 高梨は食い下がる。「古いものを壊すだけで未来は生まれません。記憶や心を置き去りにして――それを真の未来と呼べますか!」 白川は淡々と返す。「情緒では都市は守れません。必要なのは合理性と効率。新しい施設、道路、雇用――それが目的です」 法子が短く釘を刺す。「双方、感情に流されず論点を整理してね。裁判は討論会じゃないよ」 主張が出揃た。「――第1回口頭弁論はこれで終結にします。次回、第2回期日に判決を言い渡します」 菊乃はペンを止め、法子の横顔を見る。 飄々とした表情。 だが、その目にはかすかな迷いが揺れていた。 法廷を出ると、庁舎前は記者の波。 フラッシュが瞬く。「今回の行方は? 」「判決の方向性は? 」「あっ、暴走した書記官だ! 」 質問が矢継ぎ早に飛ぶ。 菊乃は固まり、顔が真っ赤になる。「あわわわ……わ、わたくしが……発言する……こと……」 そのとき、法子が割って入り、軽く笑った。「判決はまだでしょ〜。ね、もうちょっと空気わきまえてくれないかなっ☆」 一瞬、記者が静まる。法子は菊乃の腕を取り、人垣を抜けて走った。「は、判事っ!? 走るのですかっ!」「質問攻めだも
年の瀬。12月30日。 桜都市の商店街は、買い出しの人々でにぎわっていた。 東條菊乃は日傘をたたみ、ためらいなくカフェ・ロッソの扉を押した。 カウンターに着くなり、マスターの西園寺に目当ての品を注文する。「本年最後の……ご褒美ですわ」 目当ては期間限定スイーツ。 艶やかに盛られた苺のミルフィーユ仕立てが、白い皿に映えていた。 一口。 サクサクのパイ生地、甘酸っぱい苺、ふんわりクリーム。 至福の甘みが広がり、菊乃の頬がゆるむ。「……んっ。これは……しあわせ、でございますわ……」 ふっと笑みが漏れる。 普段とは違う柔らかな表情だった。 カラン。 扉のベルが鳴り、店の空気が一変する。「よう、ロックスター! 今日も一段とイカしてるじゃねぇか」 マスター・西園寺慎の声に、客が一斉に振り返る。 革ジャンにフリフリのミニスカ。 カラフルなニーハイ、そして大きめサングラス。 鼻歌まじりに現れたのは――花霞地方裁判所桜都支部、判事、司 法子。 菊乃はフォークを落とし、目を剥いた。「は、判事っ! なんですかその珍妙な格好は! 今は令和の時代ですのよ!」「おばけプリンと、地獄のコーヒーちょうだい☆」 本人は悪びれず、カウンター席に腰を下ろした。「……了解、了解」 西園寺は肩をすくめて注文を受ける。「おや、おキクさん、奇遇だねぇ! 今日は年末特別コスだよっ☆」「コスではございません! 羞恥心という言葉を存じないのですかっ!」 菊乃が顔を真っ赤にして立ち上がる。 その姿に、法子は楽しそうに笑った。「まったく、お前は変わらねえな」 西園寺がカップを磨きながら言う。「昔、バンド組んでた頃も、似たようなこと言ってた奴がいたっけ」「やめろって!」 法子が慌てて制止するが、マスターの口は止まらない。「お嬢様は知ってるか? ノリコは昔、インディーズで絶大な人気だったんだぜ。ライブは満員、雑誌の特集に深夜番組。バンド名は――」「言うなってば!」 法子は顔を真っ赤にして手を伸ばすが、小柄な腕はカウンターの中の西園寺に届かない。 その名はあっさり告げられた。「――爆裂!ぷりん倶楽部……通称、ばくぷり」「ぷ、ぷりんくらぶ……!? 判事が――人気バンド……? ちょっと意味が分からないですわ――ご説明を!」 菊乃はカウンターに手を
花霞地方裁判所桜都支部・執務室。 机の上には訴訟記録の山。 横には空になったプリンカップと缶コーヒーが転がっている。 法子は朝から独り言をこぼし、書類をめくっては閉じ、ペンを落としてはため息をつく。「……どっちに寄っても、誰かが泣く」 ぼそりと漏れた声に、菊乃は息を呑む。 いつも軽口ばかりの法子が、珍しく背中を丸めていた。「判事……お加減が悪いのであれば、少しお休みを」「いや、大丈夫。おキクさん。ただ……条文と違って、人の最期はその行間からこぼれ落ちるんだよね」 菊乃は迷った末、机上の空き缶をそっと片付ける。「契約の拘束力は重んじるべき。ですが……本人の“もう十分”という意思を無視するのは、わたくしも違うと感じます」 法子はまだ開けてないプリンカップを指先で弾いた。「プリンだって揺れても芯は残る。判決も、そうあるべきなんだ」 菊乃は返す言葉を失い、ただ横顔を見つめる。(この方は……立ち止まって崩れるのではない。迷いながらも進んでおられるのですわ) ――朝の光が差し込む廊下。 法子は黒法服を腕にかけ、窓ガラスに映る自分をじっと見ていた。 張りのない隈の浮いた顔で、口角を上げてつぶやく。「おキクさん、どう? 今日の顔、五割増しくらいで“冷徹裁判官”に見えるでしょ?」「……とても、そうは見えませんわ」「だよねぇ〜。疲れてるのバレバレか」 無理に明るく振る舞う姿に、菊乃は小さく眉を寄せた。「判事……少し、屋上へ参りましょう。風に当たって、一服されては?」 法子は目を瞬かせ、笑いを含んだ吐息をもらした。「ふふっ。おキクさんが誘うなんて、珍しいね」 ――朝の風が冷たい屋上。 法子は黒法服を脇に置き、ポケットからハイライトを取り出す。「屋上で吸う一本は格別なんだよ」 火をつけ、一口。白い煙が流れていく。 菊乃もマルボロ・メンソール・ライトに火をつける。「誘ったわたくしが言うのも妙ですが、連日連夜の徹夜、多量の喫煙、不規則な食事……お体を壊されては困りますわ――けれど、本日は特別に見逃して差し上げます」 菊乃の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。「ありがと。じゃあ、この一本で気持ちを切り替えるよ」 煙を吐き、目を細める法子の横顔には、人の尊厳に踏み込む覚悟が滲んでいた。(この方は……どんな迷いを抱えても、前を
花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 照明の白さが冷たく、時計の秒針がひとつ、またひとつ音を刻む。 書記官の東條菊乃は姿勢を正し、息を潜めていた。 「令和15年(ワ)第290号、介護費用負担請求事件。開廷します」 判事、司 法子が開廷を宣言する。 いつもなら軽口を挟む彼女だが、今日は硬い響きしか残らない。 菊乃は背中越しに普段と違う雰囲気を感じ取った。(……本日は、法服のパフォーマンスも軽口も出ませんのね) 原告は社会福祉法人桜寿会・花霞ケアホーム。代表は柳田昭夫。 穏やかな人柄だが、人手不足と経営難に疲弊していた。 被告は山岸美佐子。45歳。 母・八重を施設に預けた娘である。 原告代理人は神谷亮介。40代前半。 条文と判例を武器に、冷静沈着に論を組み立てる弁護士だ。 被告代理人は川嶋真理。30代後半の気鋭の女性弁護士。 依頼人に寄り添い、熱を込めて戦うことで評判を得ていた。 無機質な照明の下、四人の視線が交錯する。 論理と感情、契約と尊厳。 そのどちらも、これから天秤に乗せられようとしていた。 法子が争点を整理する。 「本件の争いは、延命措置に伴う追加費用についてです。原告は契約に基づく請求を主張し、被告は“本人の意思に反する延命は無効”と訴えています」 傍聴席には高梨悠一。法子の司法修習時代の同期。 ノートを開き、真剣な目で法廷を見つめていた。(……めずらしいな。いつもの法子じゃない) 原告代理人、神谷亮介が口を開く。 眼鏡越しの視線は冷静沈着だ。 「延命措置は、被告・山岸美佐子様の要望に基づき、医師の判断で実施されました。民法第415条は債務不履行を定めていますが、本件は契約に基づく給付義務の履行です。被告が家族として同意された以上、医療行為は適法であり、追加費用は契約上の債務として支払うべきです」 神谷は判例を重ねる。 「東京高裁平成22年判決でも、『家族の同意を得て行った延命措置の費用は契約に基づき支払義務がある』とされています。介護契約は準委任契約の性質を持ちます。家族が同意した以上、その行為は有効です」 淡々とした声は、冷たい論理の刃となった。 柳田昭夫は疲れきった表情のまま俯いている。 「被告代理人、意見はありますか」 法子が目を向けると、川嶋が立ち上が
大荒れとなった第2回口頭弁論期日から一週間が過ぎた。 桜都支部の執務室には重苦しい沈黙が広がっていた。 裁判内での規律違反について、菊乃は所長の訓告にとどまった。 桐生所長自身は本局からの口頭注意で済んだ。 裁判翌日に桐生が本局へ走り、深々と頭を下げて最低限の処分に抑えた結果だった。 桐生は机の引き出しから新しい胃薬を取り出す。 「頭を下げるのが私の仕事だ……これからもよろしく頼む――イタタタ」 みぞおちを押さえながら苦笑する。 その一言に、張りつめていた空気がほんの少しゆるむ。 事務官たちの間にかすかな安堵が走った。 窓の外は冬の曇天。 薄い光が書類の山を冷たく照らしていた。 東條菊乃は、一週間前の自分の叫びを耳の奥で反芻し、肩を落としていた。 ペンを取ろうとする手は、まだ震えている。 そこへ法子が椅子にもたれ、片手をひらひら。 「――『契約自由の原則なんて、くそくらえでございますわっ!』」 菊乃の声色を真似る。 空気が一瞬止まり……事務官の一人が吹き出した。 「は、判事っ……! そのような真似をなさらないでくださいましっ!」 菊乃の頬が真っ赤になる。 だが法子はけろりと笑った。 「まあまあ、判決考えてくるから、おキクさんは気楽に待っててよ☆」 桐生は眉をひそめたが、ため息とともに合議室へ。 ――裁判官三名による評議。 円卓を挟み、裁判長の桐生重信、左陪席の法子、右陪席の真壁京太が着席する。 記録と判例のコピーが重なり、紙の匂いが漂った。 桐生が口火を切る。 「契約自由(民法521条)は私的自治の柱だ。全面無効には慎重であるべきだろう」 法子が即座に返す。 「“自由”を掲げて不均衡を固定化するなら、それはもう自由じゃない。公益の名で弱者に呪いを刻む契約は、法が否定しないと☆」 真壁が資料を繰り、冷静に言葉を置いた。 「落としどころが必要です。違法部分を切除し、残部は生かす。部分無効と一部救済。判例の流れにも沿います」 議論は数時間に及んだ。 “正義とは手続か、実質か”。 言葉はやがて結論へ収束する。 ――一部条項無効。原告の請求は一部認容。契約全体は維持。 三人は静かに頷き合った。 令和15年(ワ)第234号 桜都市水族館建設請負契約 無効確認請求事